長い長い夢を見た。
気が付くと人魚になって、誰も知らない海の底で横たわっていた。岩の上で、眠っていたようだ。
ここは寒い。
海藻も生えず、魚たちもいない。
あの事故の後から、賑やかだったこの場所は海の廃墟となり、父が建てた海底神殿には自分以外の人魚はいなくなった。
「独りぼっちになる」
神殿を飛び出して南へ向かった。
ともかく、ここは寒い。
暫く行くと遥か先に黒い塊が浮いて光を遮っているのが見えた。あたりはだんだんと暗くなって、目が慣れるまで進むのは危険だと思った。
暗闇のトンネルで天井に触れると、一部が剥がれ落ちて腐臭がした。これは、岩ではない。無数の魚の死骸だ。
恐ろしくなって、一刻も早くここを立ち去りたくなった。
尾びれを大きく振って、手で海をかきわけ、僕は泳いだ。
何百メートル、いや、何キロも魚の死骸が続いて、そこは世界の終わりのように感じられた。
とかく、僕は大陸へ向かった。
少なくとも海は死んだ、大陸はどうなっているのだ?
大陸に近づくと、いくつもの漁船が海原を走っているのが見えた。
こちらは無事なようだ。
漁船に見つからないように深く潜り、人工島へと静かに近づいた。
悲鳴が聞こえた。
声の方へ近寄ると、海の底に山と積まれた貝殻の残骸が見え、どれもこれも口をこじ開けられては食べるわけでもなく身が付いたまま捨てられていた。
そばには、吊られた網に入った真珠貝たちがこちらを見ていた。
「助けて。無理やり口の中に人工の真珠核を入れられて、息をする度に酷く痛むの」
「痛いよ」
「助けて」
貝たちは口々に助けを求めた。
「昔は真珠を取る時には、島の人たちは私達を傷付けないようにしてくれていたわ」
「新しい人達が来てから、島は四角くなって、何もかも変わった」
ぽちゃん
と、海上からぎゃーと悲鳴をあげてまた一つの貝が落ちて来た。
彼女は息も絶え絶えで僕に呟いた。
「人間に真珠の首飾りを作るのをやめさせて」
「人間になって、人間たちをとめてきて」
カゴの中の真珠貝たちも叫んだ。
「どうやって?」
「この契約書にサインするんだよ」
突然あたりは真っ暗になり、振り返ると何時の間にか岩の上に一枚の契約書があった。
「取引をしましょう。人間になって真珠狩りをやめさせられたら貴方は人魚に戻れる」
「できなかった場合は?」
「放射能汚染を濾過する貝たちは絶滅して、世界は死の海となるでしょう」
契約書が目の前に立ち上がり、僕の指先は何者かによって切り裂かれて血のサインを求められた。
「さぁ」
「さぁ」
震える指先を紙へと伸ばす。
紙に指が触れるか否か、島が大きく揺れ、バリバリとコンクリートの壁が二つに割れて水が溢れ出す。
地震だ。
あっという間に濁流に呑み込まれ、僕は何処かへと連れ去られる。なんだろう、なんだか呼吸が苦しい。
意識が遠のく。
そういえば、昔、契約書にサインをした人魚がいたと聴いた。
彼女はどうなったのか、物語の結末は語り手寄って異なり、真実は分からず仕舞いだ。
この契約は、何を意味するのか。
地球を守ることが本当に大切なことなんだろうか。誰もいない海の底で一人生き延びることに意味はあるのか。
例え、海が綺麗になっても、地上の森林は荒らされ放題で、地球の浄化システムは働かないだろう。
そんなことより、
僕は本当に、
契約書にサインをしたのだろうか。