20歳のころ、自分という人間の存在に悩みました。
いや、それ以上にもっと以前、10歳になる前から自分は変だということを知っていました。
何が変なのかは分かりませんでしたが。。。ちなみに、今でも何が変なのかよく分かりませんw
10代、20代の自分という人間に流れる生まれ持った天然成分は、社会と私を結びつけることを拒み、ずーっと社会とのズレが生じたまま、歯車はかみ合わずにきてしまうのです。
なにが悩みかと言うと、自分が普通にしているつもりでも、周囲からはお叱りの言葉です。世の中の平均は何かということを常に考え続け、皆が一般的に応えるような答えを常に用意して、皆が振舞うような振る舞いをコピーしながら戦々恐々と生きているわけです。
それでも、フとした瞬間に出る自分の素の部分が、大事な誰かを不快にさせていたり、知らないうちに嫌われたくない人に嫌われる原因だったりします。
そして、それが殆どの人間が持っている悩みだったんだなということを30歳にして知りました。
誰も言葉に出さない空気を読み続ける日本人の苦痛たるものなんたるかといつも思います。
そして、この前ふりがどこに帰結するのかというと、それがさっきのブログでカチンと来た『理解』という言葉です。
多くの人が、「君を理解してあげられる」と現れては消え、現れては「理解できない」と言って去っていきます。しかも、私は理解してほしいとか思っていなくてもそうなのです。わざわざ、宣言して近寄ったり、去ったりするくらいなら、放っておいていただきたいと思うのは人間の性でしょう。言われるほうも、けっこう疲れるのです。
私は物を書きます。
そして、ブログを書き始めてもうすぐ11年です。
恐らく、ブロガーとしてはかなり長い歴史を持っています。
最初は自分という人間の説明でしたが、理解を求めるのではなく、単なるどうして自分が何の説明をも口にせずにそういう行動を取るのかという説明でした。理解を求めなかった背景は、理解できないといわれなれていたからかもしれません。
でも、こうやってブログを書き続ける理由は、理解を求めるのでなく、共感を求めているのです。
私が何か弱音を吐いたときに、「実は自分もそう思っていた」と誰かがコメントしてくれることを心のどこかで期待しているという姑息な人間なのです。
だからこそ、「君を理解してあげよう」という横柄な言葉に苛立ちを覚えるのでしょうか。
理解
理解というのは、頭で行う処理です。そして、多くの頭のいい人たちは、私が何かを思って行動した結果を見て、
「この子はこういう子なんだな」と一般化して、理解します。そして、一般化の手順が正しいか否かという自分の判断を差し引いて、私がその規格外の行動を取ると「やっぱり理解できない」と口にするのです。
そんなこといちいち言うくらいなら、黙っておけばいいのに。
何を上から目線で「お前のことを理解してやろう。フムフム」とポーズを取っているんだろうと深田は思ってしまいます。理解しようと努力すると、その人に負荷がかかってストレスが溜まり、「理解できない!」と怒りが爆発して自分に返ってくると、なんか頼んでもしていないことでトバッチリを受けたような気持ちです。
一方、
共感
共感は感じることです。相手の心に自分の心がジーンとくることです。
子供の頃、母親には「萌絵ちゃんって、本当に奇人変人で理解できないわ!」と言われてました。親に理解を求めて生きているわけではないですが、それなりに傷つきます。それが、母親が時とともに成長してくると、「萌絵ちゃんって本当に変って言われるわね~。ママも変だったのよね~」と言うようになりました。
そう、私は誰からの理解も欲しずに生きていますが、誰かに「私もそう思ってました」という一言を求めて生きているのだと思います。
自分に流れる天然成分、それは生まれてきたときに天から与えられたもの。
天然の自分を適当に切り刻んで味付けして、社会にあわせようとするだけで生きることは苦痛になる。
理解されようと努力する自分。
努力すればするほど、お互いが「分からない」ことに対してストレスが溜まる。
分からなくていいじゃないか。
分からなくても、ときに相手に流れる天然の部分を『良い』と感じることがある。
それで十分じゃない?
他に何を求めるの?