おはようございます。
昨日は、豚さんと遊んでました。
そして、古典もちょっと読んで、思ったこと。
がむしゃらに走り続けてきた二十代と違って、がむしゃら一筋で物事が進むのはある程度のレベルでまでしか無いと身体で理解しました。
がむしゃらにやってダメで初めて、策を練る。でも、がむしゃらに走り続けてみなければ、現場が分からないので現実的な策を練るには至れないね。
努力する。
働きながら、トレードしながら、大学に行ってたけど、努力で自分を変えたいと思っていた。変わった部分もあるだろうし、変わらなかった部分もある。
外側、環境の力ではなく、内側から自分を変えたいと思っていたけど、外側だけでも内側だけでも、自分は変わらない。
変わって行くこと、良くなっていくのだと信じていたけど、自分の内側の歪みや、外側の人々の歪みが自分に悪い影響を与えることもある。
結果が大事だと思っていたけれど、結果のスコア表で分かることは殆どない。野球の試合を観る意味が全く分からなかったし、結果のスコアを最後の一秒見れば済むことだと思っていた。
野球の試合の意味がスコアに集約されないように、自分の人生の意味も何か外から点数付けて理解できるものに集約できるものでもない。
人生はいつでも矛盾の連続のような錯覚を起こす。努力をしなければ、努力では動かない部分が見えない。そとが見えなければ、突破できない壁がある。努力に非ず、でも努力が非ざれば見えてこない。
結果でないと言うのは簡単だ。
でも、そう言えるのは、結果を求めて、ある程度の結果が見えなければ分からないことだ。
表面は矛盾の連続で、常に相対するものがどちらも正しく見えるから、どっちが正しい生き方なんだろうと迷う時があるね。
でも、そうやって、振り子のように、揺れている時間にすら意味があるのかなぁ。
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矛盾に見えて
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